形

中学三年生一つ目の教材が菊池寛の『形』です。
槍中村と呼ばれる槍の名手中村新兵衛は、猩々緋の羽織と唐冠纓金の兜の武者姿で「戦場の華」と賞される勇将でした。そんな中村新兵衛のもとを元服したての若い侍が訪れます。「明日はわれらの初陣じゃほどに、なんぞ華々しい手柄をしてみたい」と言って。彼は新兵衛の羽織と兜、つまり『形』を借りて戦場に臨みます。若侍は『形』の力もあってか合戦で手柄を立てます。が、『形』を手軽に貸してしまった新兵衛は平素の何倍も苦戦した挙句、脾腹を貫かれて死んでしまいました、というお話。

もちろん原典があって、その江戸の儒学者湯浅常山の『常山紀談』には「敵を殺すの多を以て勝つに非ず。威を輝かして気を奪い、勢を乱すの理を悟るべし」と書かれているのだとか。まぁ、それはそうですね。
で、こんな皮肉っぽいお話を教えるにあたって、「中身も中身だが、形も大事だ」(と、菊池寛は言ったらしい。あんまりだ)ということを考えているのですが、これ、結構難しいよ。姫さまたちの中には初読の時点で「先入観の恐ろしさ」だとか「中村新兵衛は死ぬまで『形』の力に気がつかなかったのか?」とかいう読み取るべきことはもう読み取ってしまっている子もいるだから。中には「なぜ、菊池寛はこんな突き放したような書き方で中村新兵衛を殺したのか?」というようなことを書いている子もいた。さあ、どう答えたものかね。
もちろん「何が言いたいのかさっぱりわかりませんでした」な子もいるから、最低限の解説はしなきゃならないだろうけど、初読でかなりのレベルまで読めてる子に内容の確認ばかりの授業じゃつまらないだろうし。

中学一年生の『杜子春』の読書感想文に「自分の力で稼いだお金によってでないと人間は幸せになれなのだ」ということを書いている子がいて、これはすごいと思ったのだけど、こういう子の才能をどうやったら潰さずに居られるのか、早くも前途多難な感じ。ほら、国語ってともすれば「みんな同じ事を考えましょう」になりがちじゃないですか。人と同じ事を考える力はもちろん必要ですが(そうじゃないと他人の気持ちのわからない人間になってしまいそうだから)人と違うことを考え付く力もとても大事だと思うし、深読みして考えた結果を全否定してしまうようなことは絶対言いたくないなぁと思うし。


というわけで、一言授業で喋るたびに罪悪感でへなへなになっている私に誰か愛の手を。