前略、ゆ先輩。

青い鳥を探しに行った動機が自身の貧困ではない、というあたりが衝撃というか、だったらどうしてこの喩が有効になるのか解せないですよね。
それ以上にびっくりなのが「鳥はいたがあまり青くなかった」という記述。だったら永井さんの仰る「解釈学」的考え方って何なんでしょうか。うーん。永井さんはあまりよくこのお話を検証せずに論を組み立てたのでしょうか。本文の中には「系譜学が解釈学に転じるとき、青くない鳥とともにすごした、チルチルとミチルの悲しい幼児期の記憶は、確かな実存性をもつにいたる」という記述があるのですが、じゃ、彼らの過去は不幸だったの? ベテランの先生は授業中その「悲しい幼児期の記憶」というところを以って「不幸だから青い鳥を探す→家に青い鳥が居たという事で現在の生を肯定」と仰っていたのですが、その解説も『青い鳥』にあたると怪しいような。

『青い鳥』って戯曲なんですね。知らなかった。そして青い鳥はお話の最後で何処へともなく飛び去ってしまうのでしょう? (今日学んだ) 
しかも本文をよくよく見てみると、永井さんたら「考古学的視線とは、視線を向けることが出来ないものに対する、不可能な視線の別名なのである」とか述べておられるのですが、じゃぁ、どうせよ、ということなのでしょうか。うーん。誤魔化されてる気がする。