祝! 一ヶ月記念。

一月の間一日も(そりゃいろいろあったけど)休まずに日記を書きつづけました。私、思ったより偉いかも。小学校の絵日記を書きたくなかったのは真面目に書かなきゃ怒られると思っていたから、と言うのと、頑張って書いても誰も褒めてくれなかったから、ではないかと思います。世の小学校の先生方は小学生が日記に少しくらい変なことを書いていても叱らずに「面白い。面白い」とおだててやったり、「毎日書いたね、偉いね」と当然のことと思わずに一生懸命褒めてやる、という姿勢を保つことが大切なのではないかと思います。



「魔法と魔術の違いについて述べよ」という宿題が唐突に天から降って来たのでごそごそと調べました。私、読書は好きだけど、好みの偏った読者だから所謂ファンタジーとかSFとかについては吃驚するくらい知識がないのです。それを見込んでの宿題に違いない。神様の意地悪。
だって、偉い魔法使いの出てくるお話って危機一髪な場面に遭遇したとたん、いきなり凄い魔法が使えるようになったりするじゃないですか。あれが理解の域を超えているのです。「そんな大技が使えるなら最初からもっと頑張りなさいよ!」と言いたくなってしまうというか。
で宿題の結果ですが、なんだか魔法とか魔術を体系的に考えている人がいたようなのでそれを引用。
魔術というのは現象を優先する、いわば帰納法的なアプローチである。それに対し魔法とは理論が先行する、演繹的なアプローチを取る。魔術から魔法へと言うのは発展順序であっても優劣ではない。それは汎魔術から学院魔法へと移行する段階で落ちてしまった術(LL)が存在する事でも解る。果学革命以後は意味合いが変化し、魔術は応用果学を意味し、魔法は理論果学を表す様になった。
ということです。既に「帰納」と「演繹」の意味さえ良くわかっていない私には非常に難解です。魔術や魔法を侮ってはいけませんね。
ちなみに私は神様の意図も何となくわかっています。神様は恐らく奈須きのこさんという方の書かれるお話を踏まえよ、と仰りたいのではないでしょうか。私は全く未見ですので聞きかじりですが「魔法は万能。そうじゃないのが魔術」ということが書いてあるのですかね? いずれにしてもお気に召しましたでしょうか、神様?


ところで今日購入した小池真理子さんの『水の翼』にはもう最初の30ページでめろめろくらくらです。小池真理子さんほど「若い男の粗野な美しさ」を上手く書く人はいない気がする。東北大の大学生、寺島東吾がはじめて木口版画家の柚木邸を訪れスリッパに足を通す、その描写からして溜息が出るほど綺麗です。
 
素足だった。形のいい、たくましさを感じさせる足だった。雨で少し汚れてはいたが、足の爪はどれも短く切られていた。

あー。こういう足、好きだ。私は素足に靴を履ける男の人、というのが好きです。骨がくっきりわかるような、大きくて硬そうな足が好きです。男の人の足は足首より下で勝負です。不衛生なのは論外として、清潔すぎても駄目だし小さかったり柔らかそうだったりしても駄目。投げ出したとき足先が「憮然」としているような感じ、というのが望ましいです。10代ならばスニーカーに裸足というのが最もめろっとしますが20代を過ぎたら重くて堅い靴と裸足、というのができる人がこの世で一番官能的ではないかと思います。見たことないですがね。革靴に裸足とか、足が大変なことになりそうですからね。最近は靴下も認めることにしましたが、お部屋に上がったら早く脱いで欲しいものの一つだと思います。
最近、小池真理子作品のキーワードは「仄」だと気付きました。「仄暗い」とか「仄白い」とか。人工的に精密に計算された「暗さ」とか「白さ」に煙草の煙が掛かったような語感でとても素敵です。